シベリアに抑留されていた叔父の話

1945年、第2次世界大戦で日本が降伏したときにソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、北方領土と満州国に攻め込んできた史実がありますが、そこで戦死した犠牲者は何も語る術がありませんでした。
しかし生存した人から体験したことを親族や友人に伝えることができました。

大正生まれの若者だった私の叔父は、日本軍に徴用され満州に渡ったことや、終戦後ソ連軍に捕まって捕虜になったことなど全く知らずに、愉快でいい加減な叔父だと思って50年も生きてきました。
何にも知らないで、叔父のことを敬うこともなく、何不自由なく生きてきた自分を恥じたいと思います。

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戦争体験者の多くは体験した嫌な記憶を思い出したくないためか、親族にも語らないことがあるようです。
私の叔父から直接当時のことを聞いたことがありません。
シベリアに9年間抑留されて帰ってきたことは父親が晩年に教えてくれたことで
工藤家の実家の近所が叔父の生家で、
父親とは年上の兄貴分のような関係でした。
だから、帰国直後は家族や友人にシベリアで過酷な虐待を受けてきたことを詳しく話したと思います。

冬になるとマイナス20℃の極寒で大した防寒着も支給されず強制労働や粗末な食事。
映画「ラーゲリより愛をこめて」によると第一便の引き上げは終戦から9年目、諜報活動の疑いを掛けられた捕虜は12年後(1957年)私が生まれる6年前まで抑留が続いていた事実。
叔父は一便の船に乗れたので9年だっただろうと分かりました。

私の父親の兄弟は3男2女で父親は次男、叔父は次女のフジ子さんと結婚しました。
その間に生まれた私より4つ年上の娘さんを一人授かりました。
その後のことは娘さんから、私の父親の葬儀のときに聞きました。
シベリア抑留から帰った叔父が先ず言ったことは「愛子はどうしている」だったそうで
愛子さんは工藤家の長女、一際上品な印象の女性でした。
しかし、そのときは既に地元の有名企業住友化学に勤務する男性宅に嫁いでおりました。(残念!)
愛子さんと再会することを願いながら辛い強制労働に耐え続けたに違いありません。

運命は残酷です。残っていた次女のフジ子さんと叔父は結婚することになりました。
フジ子さんは働き者で、地元のスーパーで経理部まで任される幹部社員に、
叔父は、軍人でない徴用のためかわかりませんが軍人恩給は貰えてなかったかもしれません。
安い町営住宅で一家3人は暮らし、一人娘は学校教員になり、フジ子さんもお金を貯めて一戸建ての住まいを持ちました。
娘さんから聞いた話では、叔父夫婦が喧嘩する度に「ワシはお前ではなくて愛子がよかったんじゃ!」と
不貞腐れていたそうで、国同士の都合で個人の権利は奪われ、人生の歯車を大きく狂わされた
叔父の人生の物語、大正生まれの若者たちの犠牲の上に私たちの便利や平和があることを忘れないようにしたいと思います。

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これはね、何度も紹介してますから
説明を省きますが

ビンテージ調のサイレンサー

最近、半年以上前にご注文いただいた別製品のお客さんから「納期はいつか」という
問い合わせがくることが多いです。

無理もありません。
しかし、ろくに生産設備もないまま
手作りで製作に応じていますので
作業時間が掛かってしまうことは
ご理解いただきたいです。

一生懸命やってますから、半年以上お待ちいただいているお客さんなら、あと数か月我慢していただければ希望の商品が手元に届くでしょう。

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今、ロット生産してますからね。

グラスウール詰めて、蓋を付けるところです。

マウントステーやエンドパイプも拵えてありますから、あとは組み立てるだけ。








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マウントステーの取り付けは治具に合わせて溶接します。

なんとなく昭和の香りがする零細企業の様相ですね。

ここは30年間時が止まっているんです。
多分このまま設備投資しないで余生を送っていくことになると思います。















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