2014年12月アーカイブ

実家伊予西条市小松町にて四十九日法要と納骨をして参りました。
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往路はいつも明石海峡大橋です。
天気が良くて美しい景色が好きですね。

支柱の高さと吊橋の長さが世界一だそうです。
世界に誇れる日本の建築技術です。

四国に最も早く上陸できるルートということもあるのですが、山陽道より高松道を走る方が瀬戸内海を臨む絶景が楽しめるので
断然こちらがお勧めです。

復路は本州に早く上陸できる、しまなみ海道か瀬戸中央道になります。

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淡路島で発見した森実運輸のトラック。

郷土愛を感じますね。
4トンのパネル全面ラッピングですよ。

それにしても大きな印刷ですね。
全塗装の時代は過去のものになってしまいましたね。






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納骨の前日に到着してお墓掃除をしておきました。

お墓を見るといろいろなことが思い起こされます。

母親が亡くなった昭和46年(享年39)から
5年後に父親が建立しましたが
当時46才でしたから、大変お金に苦労したのでしょう。5年間貯めてから、しかも二人の息子が進学の時期です。
こんなに立派なお墓を建てたのも、霊票を見て分かるように、後に入る人に負担が掛からないように余白が空けてあることで、納得できます。

気が付いたら私も年を取ってしまって、何一つお返しもできないまま旅立たれてしまいましたが
お二人の間に生まれてこられて良かったと思います。そうでなければ今の自分がいないのですから。せめて遺言に書かれたことに背かないように生きていくことが使命だと思っています。

法要と同時に、「かんにち」という、この地方特有の風習も行いました。
死者の正月に当たるもので、墓の前で餅を炙って親戚の者がちぎって食べるだけなのですが、
その由来は、ここは戦国時代、高知の長曽我部氏が侵攻してきて、地元の城主黒川氏と戦闘を行った場所です。
大勢の両軍の武士が斬り合って亡くなった場所ですから、その武士たちの供養の方法が現代まで引き継がれてきたということです。

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家の用事を急いで済ませて帰り道、どうしても立ち寄ってみたかった場所を発見しました。

R11加茂川を渡るときに土手に立っているのが見える看板です。
学生時代から看板は見たことありましたが
書かれている意味が分からなかったのです。
所沢で零式艦上戦闘機を見てから、いろいろ調べていたら、最初の神風特攻隊の隊員のことが分かって
その指揮官が地元西条出身の若者であったことを知り、いつかは慰霊碑を訪れたいと思ったことが叶いました。
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これが楢本神社に建立された敷島隊五名の遺品を埋葬した忠魂碑です。
傍らの砲弾は実際に搭載した爆弾と同型のものらしいです。

第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将(終戦時自決)の命令により
昭和19年10月20日編成
同10月25日出撃
敵護衛空母セント・ローに命中し、弾薬庫爆破により沈没せしめた日を記念日として毎年、この記念館前で慰霊祭が行われているそうです。

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境内にかかる隊員の紹介文

隊長の関行男中佐は最初の作戦命令に即答しなかったといいます。
「私なら250キロ爆弾を何度でも命中させられますが、それでは駄目でしょうか」
上官はいいました。
「駄目だ、最初の攻撃に成功しなければ後に続く者が躊躇してしまう。この作戦を成功させられるのは君しかいないのだ」
しかし、成功するということは確実に死ぬということを意味します。
一晩考えた関中佐は決心したといいます。
そしてこんな言葉を残されました。

「私のような優秀なパイロットを死なせなければならない、この国は負けることは確実だろう。しかし死んで作戦の無意味さを軍部に分からせることが戦争の終結を早めることになるならば、国民や子孫の平和の実現のため犠牲になることを決意した。」
恐るべき勇気と責任感をもった男だと思います。それに従った他の隊員たちも同様です。
勝てる見込みの無い戦いを仕掛けたのが元で、後に引けなくなったうえ、二度目の過ちの始まりだったわけですが
戦没者を軍神として崇め奉ることに、賛否両論だと思います。
だから私の主観を言わせていただくと、最近のリアルな戦争映画が公開されていく目的として、より事実を風化させないで後世に伝承していくことが平和解決の道だと思っています。
戦争体験者は日に日に失われていきます。
上記の大黒繫男隊員は父親の通った新居浜工業高校の先輩であり、大正10年生まれの関中佐と同年代の叔父はシベリアに9年間抑留されて帰還しましたが、まだ存命であります。
残された者は史実を無きものにすることなく伝承することが、敷島隊のほか数千人の無駄死にした大正生まれの若者たちが意味のあることにできる唯一の方法だと考えております。
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東大医学部初代教授
真鍋嘉一郎氏の生家が楢本神社境内にあったのですね。

知らなかった。
西条市って重要人物が多いですね。

国鉄総裁で新幹線の父と呼ばれた十河信二さんは西条市長を勤めたりしましたし。



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手前は東郷平八郎率いる戦艦三笠がバルチック艦隊を撃破した主砲砲弾です。
三笠は大正15年に廃艦されて、現在は横須賀港に展示されているようです。

後ろの大きいのは戦艦大和主砲砲弾

全長1.95メートル
重量1470キロ
装薬量330キロ
初速780メートル毎秒
最大射程42000メートル

史上最大最強の砲弾だそうです。
明治時代から戦艦作れる造船技術が日本にあったなんて信じられません。
製鉄所が既にあって、溶接はガスでしょうかアークでしょうか。物作り日本の力が皮肉にも、人殺し兵器のために発達してきたことも忘れてはなりませんね。




来週の水曜日に父親の四十九日法要のため、片道850キロ走って帰らねばなりません。
自走で帰る理由は、車両の運搬と納品を兼ねているからであります。

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こんなパイプを作っていますが、1本あたり3日掛かりますので土日休まずにやってもあと2本ちょっとしかできませんが
車両の返却がマスト要件なので月曜夜が積み込み期限で進行しています。

全長長いので通常のチャンバーより溶接が50%多いです。







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ビンテージチャンバーなのでガス溶接で繋いでみました。

車体は返却するので、治具で合わせたものと同等性を確認しているところです。

口元からテールパイプまで長いので僅かに傾いても位置が違ってしまうので、位置決めに相当な時間を割いています。

このような大きな商品は複数梱包すると荷物サイズの関係で、宅配便では送ってもらえません。
梱包も厳重に行わないと、運送中にダメージを受けることになるので、長距離ですが自走で運んだ方が安心ということです。

91年はホンダオブUKを立ち上げるためにイギリスに長期滞在しておりました。
土日は会社が休みなのでレース観戦に出かけるのですが、JULY 7th 開催の世界GPモトクロス500ccクラスは、ある意味で忘れられない日となりました。
それはレース当日の夕方5時の飛行機でベルギー出張の予定だったからです。
移動は出張者全員にカンパニーカーを貸与されていて自分で運転するのですが
会場のホークストーン・パークまで滞在先のファーリンドン村から2時間の距離です。
滞在はホテルを出て駐在員の社宅に居候していて、そこからヒースロー空港までは1時間の距離です。
F1レーサーのアイルトン・セナがスピード違反でつかまってニュースになったM40(モーターウェイ)を走ります。
この移動時間から、飛行機に間に合うためにはファーリンドンの社宅を3時出発がリミットでした。
従って早朝、ホークストーン・パークへ向かって午前中、500ccの公式練習と前座の250ccクラスのレースを観戦しました。
250のレースは当時AMAチャンピオンだったJM・バイルも出走していましたが、地元のカッコ悪いオッサンが速くて勝てないくらいレベルの高いものでした。
イギリスのコースはここに限らず、自然の地形を利用したものが多く、ハイスピードでテクニカルなものです。
日本に見られる狭い土地を平らにしてジャンプを造成したようなコースではスピードのレベルが違うことが分かります。
しかも長距離移動しなくても多くのサーキットが存在するし、ドーバー海峡を渡ればすぐフランスという立地の良さですから優秀なレーサーが育つのも当たり前かもしれません。
結局500ccのレースはスタートだけ観て、急いで帰りましたので決勝レースは観てなかったのでした。


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ホークストーンの売店で買ったTシャツ

KX500に乗るUFOのジャージは英国人ライダー、ポール・マリーンがモデルです。

この年はジョルジュ・ジョベがCR500の市販車で500ccタイトルを取りました。
ジョベやJ・マルテンス、B・ライルズなど本物のGPライダーの走りを目の前で観れたことに感動です。





ヒースロー空港に着いたのは搭乗時間30分前でしたが、同じ会議に出席するパーチャスセクション(購買部)のリック・スミスと偶然合流できたのでチェックインもやってもらってスムーズに飛行機に乗れました。
ベルギー・ブリュッセル空港には栃木からチーフエンジニアと現地法人の日本人が合流してホテルへ向かいました。
翌翌日はドイツ・ハノーバーで別のメーカーで会議。ドイツとイギリスは時差が1時間ありますので帰りの便は夕方5時にハノーバー発、5時ヒースロー着という不思議な体験でした。飛行は1時間でしたが地球の自転に逆行しているからなのですね。
ハノーバーの売店でスミスさんに「友人のコバヤシにドイツのエロチカルマガジンをお土産に買ってやりたい」と告げて本屋で物色していると、スミスさんが「そんなのイギリスにも売っている」と言うので
「いやいやドイツでしか売ってないのを探しているんだ」という意味の英語で伝えました。
法律でイギリスでは、男女の絡みは掲載禁止になっていますがドイツではOKなので、それを探していたのです。
ヒースロー空港に着いたらロングタームの駐車場に停めた社用車のバラードに乗り込もうとしたら、スミスさんが「ワイフに乗せてきてもらったから乗せて帰って欲しい」と英語で言うので乗せてあげました。
威勢よく走りだして、ヒール・アンド・トーでアクセルを吹かしながらクラッチミートさせていると
スミスさんが興味深く私のアクセルワークを見て「ヒール・アンド・トー!」と発声してました。

後日、国内のメーカーに出張するとき、今度はスミスさんのドライビングで乗せてもらって驚きました。
まるでラリードライバーのようなドライビングテクニックでタイヤをスライドさせながらブラインドのワインディング道路をカッ飛ばしていくのでビビリました。
モータースポーツの国ですから一般ドライバーが既に速くて上手いのです。
日本のように信号と一時停止で交通を遮断している国とはスピードに対する経験が違うようです。