ホンダ社報

60近いおっさんが寄ると昔話しかしません。35年前のことを昨日の出来事のように
私も同様に新入社員だったころの社報が実家の本棚に置いてあったのを読み返し、
21歳のころと56歳になった今では当然違う見方の自分がいることに気がつきます。

昭和58年(1983)は本田技研創立35年で、21歳の青年にとっては長い年月ですが、56歳から見ると僅か35年であのような大企業に成長していたことが信じられません。
そして勤めている会社が第2期のF1復帰を表明するのです。
そればかりか2輪の各カテゴリーでトップ争いを展開しているなかで、自分の配属先も決まってないという
実習期間でのことです。 何が何やら


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83年ホンダ社報
本社総務部ホンダ社報編集局発行

社長は2代目、河島喜好さん

本社は神宮前の貸しビルから
青山一丁目に新築したころでした。
自動車メーカーはクルマ作っているだけでなく、海外に工場建設したり
原価計算したり、OAシステムを構築したり
生産設備の管理をしたりと数えきれない職種を総合した集団です。

目的はエンジン製品を作って顧客に買っていただくということに集約されます。


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営業実習していたころの新型車
バラードスポーツCRX 1.5iです。
地元の友達に1台買ってもらいました。

2輪はVF750が発売されたのですね。
しかし、レーシングシーンは2スト全盛
売るエンジンと戦うエンジンは
全く違う方向性であることがわかります。

「レースは走る実験室」とは言ったけれど
市販車にフィードバックするというのは
絶対嘘です。
工場勤務の従業員はあまりレースに無関心な人が多いなと思いました。
世界から注目されて会社の印象を決定付ける重要な役割りがレースの世界と思っていました。

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ほら、全従業員に向けてレース活動の報告をしている記事です。

取締役会でF1参戦を決定して
当時は和光研究所主導でエンジン開発
英国のコンストラクターと共同でマシンの開発、レース運営を行いました。
携わっているのは量産に関係ない選ばれた一部の人間ですが、雲の上の存在でしたね。

ここから1.5リッターツインターボの快進撃が始まるのです。
スピリット・ホンダから常勝マクラーレン・ホンダ
今の方が圧倒的に技術力が高いですが、当時の社内の活気は比べ物にならないくらい当時が上でしょう。やはり結果が全てだということを勝てなくなってから思い知ることとなりました。

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協力メーカーの紹介もあります。

現(株)ショーワ
昭和13年、昭和航空精機株式会社設立
ホンダより早い創業だったのですね。

昭和21年(株)昭和製作所として自動車部品の製造を開始
ショックアブソーバー製造は昭和28年から

別会社なのに本社がホンダ八重洲ビル内というのも興味深いですね。
ホンダが大株主になって取り込んだのでしょう。



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見つけました。井本さんノービス時代
狭山レーシングと品管室の先輩社員でしたが朝霞研究所に栄転されて、今では日本も世界も総括するオフロードグループのトップになられました。

当時は本気でスーパークロステクニック修得に励んだ時期でした。
桶川に練習にいってもAコースは走らず、
池の底と土手を使ってジャンプの練習ばっかりクラブ員一同やらされてました。

「どうだ、寝ていたか!」パンケーキジャンプできたかな。



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世界GPレース速報
ロードレースはNS500V型3気筒が4ストNR500に代わる勝つためのマシン。
フレディー・スペンサー
片山敬済
マルコ・ルッキネリもホンダだったですね。
そしてロン・ハスラム

モトクロス500は
アンドレ・マラーベ
グラハム・ノイス
デビッド・ソープ

トライアル
エディー・ルジャーン、エアターン開発した人
服部聖輝も懐かしいね。全日本モトクロスはHRC契約ライダーが一番多かった年、125ccと250ccクラス3人づつ契約していて最強の布陣だったでしょう。

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男たちのロマンを語る

1965年、F1メキシコGPで初優勝したマシンと視察に来た本田宗一郎最高顧問。
右がリッチー・ギンサー選手と
乗車しているのがバックナム選手

まだ4輪メーカーでもなかったころに
F1優勝を成し遂げてしまった快挙に
世界が注目しないわけがないでしょう。
その裏側でどのようなことが行われていたかを想像しただけで興奮してきます。



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このころまだ知り合っていなかった
高橋技師
私が最後に在籍したプロジェクトの上司です。
イギリス、スウィンドン工場(最近EU離脱に伴い閉鎖が発表された)
立ち上げメンバーに選ばれ駐在されました。
私が辞表出した後、現地人PQセクションリーダーのイワン・ロビーを連れて帰国され、別れの言葉をいただいたことを思い出しました。
ここに書かれた記事がホンダ車の品質作りの考え方であったことは事実です。
多くのことを学ばせていただきました。
「まいったなー」あてにしていた部下に辞められて、後任は私より優秀な社員が当てられたなら、会社にとってはOKではないでしょうか。

どうです?昔話っていうのは今だから面白く語れる、当時は大事なことに気付いていない、
そんな魅力に溢れているものだと思います。


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